Let there be love

赤毛のアン」の再放送を見た。小学生くらいの頃、よく観ていた。単純に、おもしろかったから。久しぶりに観たらとても深い話だった。昔は何もわからずに観てたんだろうか。(わかるはずがない)モンゴメリはアンの生涯を書いた。アンを取り巻くあの登場人物たちの深みのある人物像はやはり実体験からきているのだろうか。だとしたらとてもカラフルで少しうらやましい。義理のおじさんのマシュウは「優しさ」を絵に描いたような人だ。最後まで心を濁すことなくそれを貫いた人だ。私が男の子だったら力仕事を手伝えるのに、と言うアンに、1ダースの男の子よりわしはアンがいてくれて幸せじゃよ、と年老いて疲れ切った顔をくしゃくしゃにして微笑むマシュウ。翌日、彼は他界する。しきたりで家族は泣いてはいけない。黙って感情を抑えるアン。部屋にもどって一人きりで空を眺めてるときに思い出す優しい笑顔。せきを切ったように感情があふれ出して泣き出すアン。自分の存在を認めてくれたマシュウ。自分はここにいていいと教えてくれたマシュウ。そんな彼が死んでしまった事実。それと必死に向き合うアンの姿。

人生というのは割り切れないものです。いいえ、割り切れてはならないのです。

アンの昔の恩師の言葉より。迷いを切り離すことはできないし、簡単に切り離してはいけない。完全に前向きになることなんてできないし、できてはならない。それでいい。そのままで。引きずりながら、足に少しの重みを感じながら、歩いていく。それは年を重ねる毎に重くなるけど、捨ててはいけない。ちゃんと抱えて、歩くことこそ正しい道だという。それが人間というものだと。朝起きてすべてを失った気分になること、ありませんか。寝て忘れて、過去を切り捨てて、それはたぶん、身体を切り刻むのと同じ。

思い出の味はモロヘイヤ 苦いけど 体にとってもいいから
 残さず食べよう むしゃむしゃ もぐもぐ

余分なものは うんちになって いつか土に還るよ

曲がりくねった道を歩いてるうちにだんだん過去が他の人生に思えてくることがあるけど、机の引き出しを開けて、タイムマシーンに乗って、過去の自分に会いに行って、抱きしめてやることで、人はひとつ大きくなるんだって。(ACの本より)まっすぐ歩いてこれたら、いちばんいいんだろうけど、当たり前になかなかそうはいかない。
人の幸せはそれぞれだけどいちばん嬉しいのはやっぱり誰かに存在を認めてもらうことなんじゃないでしょうか。そんな誰か=マシュウを失ったアンは、重い足をひきずってまた歩き出す。普通に生きてる限り人間の周囲の環境は常に変化しつづける。それはみんなそれぞれの明日へと歩いているから当然のこと。十字の交差点を眺めてて立ち止まっている人なんて見えないよね。そんな周囲に影響されながら人は自分の道を模索する。流されることも、流すこともある。だけど未来にたどり着く方法は一つじゃない。間違ったところで折れてしまっても、描く未来さえあればいつか戻ってこれる。割り切れないまま、引きずったまま、歩いていく。
そしてLet there be love.そこに愛がありますように、とどこかで祈りながら、今日も街は人でいっぱいだ。